
りえますが、授業ではせいぜい思索のきっかけ程度の役割をもつ場合があるに過ぎません。評価に使うなら、併せて視野の広狭・視点の多少をも把握する努力をするべきです。また「動物をかわいがろうね」、「自然を大切にしましょう」、「環境にやさしい生活をしよう」などと言って授業をまとめることは、ほとんど意味がないということにもなります。
次に、環境問題を「社会的ジレンマ17)」と捉えたり、環境教育の授業を「モラルジレンマ授業18)」として構成しようとしたりする動きがあることに触れましょう。それらの詳細な意味については専門の文献に譲り、自動車の利用の例を挙げておくだけに止めます。自動車は便利な交通手段です。しかし大気汚染や都市の騒音など環境悪化を引き起こしてもいます。また交通事故による死者は年間一万人を超えています。この点から自動車を運転すべきか否かはジレンマ(板挟みの苦境)と捉えることができます。さてしかし授業において、「さあ、車を運転するかどうかは君達一人ひとりのモラルの問題だ」という形で進めることには問題があります。とりわけ心情面に力点をおいて問い詰めることは本質的ではありません。確かに現実問題としてマイカードライバーになるか否かは選択せざるをえません。しかしこの問題では、選択行為そのものよりも、いずれかを選択するまでに多面的に考えを巡らせることが大切ですし、あるいはさらに車社会を見直して新たな交通体系はありえないかと模索する姿勢を引き出すような授業こそが、一層期待されるところですついでに言えば、交通問題は深刻な環境問題であると、筆者は認識しています。この場合、大気汚染といった面だけでなく、交通事故にもっと注目すべきです。毎年一万人以上が死んでいるのです。負傷者数は一体との位なのでしょう。イヌ、ネコ、イタチなどの動物も多数死傷しています。人をはじめとする生物の生命・健康を脅かす問題として、残念なことに、立派な環境問題であると言うことができます。
さて最後に、各学校の教育課程における環境教育の位置付けに関して感じている点をお話しします。環境教育学会の年会の発表プログラムを見ても感じますが、それは「雑多」という印象です。実践的な環境教育研究では、数時間程度のモジュールの開発などが中心となっています。全校を上げて環境教育実践を行っている学校であっても、自然保護ポスター作り、空き缶回収、紙漉き、花一杯運動、あるいはネイチャーゲームなどの活動が、どのような考えで選択され配置されたのかが、鮮明に示されていることはまずありません。どんな知識・能力・態度がどのように深化、拡張あるいは修正されるというのか、その考えが読み取れないのです。環境教育にもある程度の体系性は必要です。もちろん既存の教科はどの強固なものではなくて、かなりルースな体系でよいのです。子どもから離れた所で柔軟性のない体系的計画を立てることは、むしろ近年の学習観と矛盾することは既に見てきたとおりです。しかし、それは子ども中心主義で放任してしまうことを意味するのではありません。ルーズではあってもある程度の体系性は検討される必要があります。環境教育が学校教育に根付き始め、また小学校から高校にわたって「総合的な学習の時間」が設けられたときを想像してください。環境教育は、いかなる資質・能力を育てるかを考えたうえで、学年・学校段階という縦の軸と、各教科等との関連という横の軸とを考慮に入れて、ある程度の体系性を備えるよう構想されなければならないはずです。
おわりに環境教育にかかわる最近の動き、あるいは環境教育実践に当たって検討すべきことについて、句点かをできるだけ分かりやすく指摘してきたつもりです。しかし言及できなかっ
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